昭和44年7月22日 夜のご理解
「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」と。ん。どんなにそれは間違いなくに菊の花でありましても、咲かなければ人はそれを菊とは言わないと。合楽の信心がどんなに素晴らしいと言うても、やはり本当に開花しなければ、本当のおかげを受けなければ、やはりみんなが、なるほどそうだなと思わない。そういう意味で私は合楽はまだ、もう本当に、えぇ、何ぼでもおかげを受けていけなければならんし、またおかげを受けて行くなぁと思うことですね。こうしておかげを頂いておりましても、これは合楽の人達だけが菊だとこう思うておるだけですからねまだ、まだ言わば全国の、おぉ、方達が、まあ少しはその目を向けたとは言うてもですね、まあ、まあ言うならこんなにまで素晴らしいとは思うてないです、内容が、こんなに、素晴らしいといったようなことを言うと大変、これはもうあの、あぁ、手前味噌になりますけれども、例えば最近頂いておるこの御理解なんかの、とてもとても本気で、えぇ、御道の信心を極めようと思う人がもし本気で聞いたら、もうたまがってしまうだろうと思うですね、例えば今日もそれも幾人もそれを言う人があったんですけれども、例えば今朝の御理解の信心の心得、心掛けといったようなことね、というようなことを、あの、なんですかね、えぇ、立教神伝を、これはお道の信心があそこから誕生したんだと、いう意味合いにおいて大変、まあ大事な、あぁ、み教えとして頂いておりますけれども、あの立教神伝を、を、金光様の御信心さして頂く者の、すべてが、あぁ、あれが、例えば心掛けである、しかもそれは、御神徳を受けていくためには、この心掛けを、どうしても、お、あの教祖の天地金乃神様との、おぉ、間のこと、それから神様からご依頼を受けられた時の、あの時の教祖様のご態度と、いったようなものがです、もうみんな、私共がそれを、神習わして頂かなかければならないことばかりなんですよね。もうこの発見なんかはもう、もうそれこそ大変なことだとこういうわけですね。例えば、今日昼の御祈念の、あの後に頂いております、あの、「神徳を科学する」とかね、「信心を教学する」といったようなこと、もう合楽の信心はですね、御神徳というものは、もう説明が出けない、大体は。それをも~うあらゆる角度から説明しているわけなんですよね。だからそれが分かって、ね、信心修行と相まってお徳を受けていこうというのです、そういう、言うなら例えば、そういう試みをした者が、かつて無かったわけですから、もう大変なことなんですよね、実際を言うたら。ね。ですからそのように、例えば素晴らしかってもです、だから私ここに、有難いなぁということはですね、もうここに御普請が出けた、お参りが多いといったようなことだけが、花が咲いたのであったらですね、それでみんがが認めてくれたらですね、もう合楽はそれまでですよ。けれどもまだみんなが認めていないということころに、まだ、草、野の草とも、または、あぁ、菊とも分からない、ような見方をされておるということが、実を言うたら合楽のこれからの、まあ、だから合楽はこれからだということが言えるわけなんですね。そしてなら、自分達だけは、私共だけは、その合楽に御縁を頂いておる者だけはですね、いわゆる、もう間違いのない菊だと確信して、それを育てていきよるということですから、これは大変なことだろうと私は思いますね。これが例えば全国、全教なら全教の人達に、「っと合楽の信心を持ってしなければ」という風に認められてきた時こそが、はじめて合楽の信心が咲く頃でしょうが、もう咲いた頃にはどういう素晴らしいことになるだろうかと、まあ、本当に、えぇ、胸が膨らむ思いが致しますですね。してみると、「どうしてみんなが分からんじゃろか、こげな有難い合楽の信心をどうしてみんなが認めんじゃろうか」ってなんてんっちいうこといらんことが分かります。ですべっ、だからこそ合楽はこれからだといったような、おかげを受けられることを、裏付けるようなもんですよね。
「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」です。現在の合楽のためにある句のような気が致しますですね。いよいよ本当の菊の花が開花するおかげを頂くために、例えば今日のごりっ、えぇ、朝、または昼の御理解を、本当に私共の信心生活の心掛けとさしてもろうて、いよいよ、おぉ神徳を科学される、される、または信心を、本当に教学さして頂くということに相まって、えぇ、絶え間ざるところの信心の、おぉ、修行、ね、これがなされてはじめて、えぇ、いわゆる鬼に金棒と言うかね、神徳が教学に支えられての神徳ということになれば、いよいよ鬼に金棒なんですからね。 どうぞ。